コーポ啓21号室~偽コンビクトの日々戯言

50歳を過ぎてもまだまだぼやくぜ

三沢光晴さん、安らかに眠ってください

ちょっと気持ちが落ち着いてきたので書くか。

三沢光晴が死んでしまったなんて今でも悪い冗談に思える。たしかにここ最近の彼のコンディションが悪いのは、最近プロレスから若干離れていた僕でも簡単に分かるくらいだった。社長と一選手を両立するのはかなりしんどいことだということも知っている。それでも、あの受身の名手である三沢が試合中の事故で死んでしまうなんて全く想像外の出来事だった。おそらく今までのダメージの蓄積なのだろう。地上波放送を打ち切られ観客動員も減少の一途のプロレス冬の時代である、心労もかなりのものだったはずだ。アキトシは悪くない。

よく言うことだが、僕のプロレスへの興味のスタートは全日本プロレスの中継だ。大学時代、煮詰まった夜にテレビのスイッチを入れて小橋のファイトを見るようになったのがスタートだ。そしてその頃の全日は、三沢光晴率いる超世代軍とジャンボ鶴田の鶴田軍(まだ聖鬼軍とは言わなかった)の抗争が目玉だった。明らかに強いジャンボにガンガン当たっていった超世代軍の姿を覚えてる。
その後川田が聖鬼軍に行って、本格的にスタートしたのが四天王プロレスだ。三沢、川田、田上、小橋の四人は筆舌に尽くしがたい試合を連発していた。死んじまうだろ、と思わず呟くような試合ばかりだった。中継中に解説席の馬場さんが泣いてしまったこともあった。当時おそらく人気では新日本のほうが上だったはずだが、僕には地味でも全日のほうがものすごく見えた。とにかく相手の技を受けまくることで組み立てていくスタイルがとてもしんどいのは、当時何もわかっていない僕にもよく伝わった。地味な連中が毎週繰り広げるファイトは、僕にプロレスの面白さを確実に植えつけてくれたと思っている。

あの頃の三沢は僕にとってプロレスの凄さの代名詞のような存在だった。僕は小橋のファンなので三沢に肩入れするようには試合を見ていなかったけれど、あの頃の全日を引っ張っていた三沢の姿はやはり忘れられない。

そういう危険なスタイルを貫いたことでプロレスの危険度が飛躍的に高まったのは紛れもない事実だった。この点、四天王プロレスの及ぼした悪影響も見逃すことは出来ないのだけど、それでも当時の彼らにはそれを貫いていかなければいけないという決意やプライドが強く感じられた。レスラーもファンもその流れを結局止められなかった。それがとても悲しく思えるのです。